市川の花火

花火の町市川三郷町

花火
武田信玄の狼煙がルーツ。市川大門の花火の歴史は、武田氏時代の煙火師に始まるといわれています。これは興行用のものではなく、軍事用の狼煙であって、「武田流」とよばれる製法と打上げ技術がありました。武田氏滅亡後は武田流煙火師、火術師たちは徳川御三家に仕え、その子孫が花火作りに専念したといわれています。火薬の使用は、武士階級では火術師によって行われましたが、観賞遊戯の花火は”町人の技”として発達しました。山梨県では、市川大門町において、元禄・享保(1688~1736)ごろから盛んになったとされ、江戸時代、日本の三大花火、常陸の水戸、三河の吉田(現、豊橋市)、それに甲斐の市川を指すまでになって、かなりの盛況であったといわれています。

神明の花火の始まり

市川の町は、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の子義清が居館したところで、古くから紙漉き業が盛んでした。この市川和紙興隆に貢献した京都の人.甚左衛門の命日7月20日を、紙の神を祀る神明社の祭礼日とし、この日は花火の打上げがあって、相撲とともに有名で「神明の花火」とよばれていました。市川には、御用紙上納の「肌吉衆」が置かれ、上納紙運上のため江戸に赴く御用紙衆が、江戸で見た花火の新技術を伝え、更に、市川代官所の設置もあって、寛政年間(1789~1801)にはますます発達しました。村役人、見届け人を選んで、町の五丁目を境に上下に分け、一年交替で宿道で、山車上に設けられた 筒から打上げられ、その種類も既に、玉火、網火、龍星、からくり など多彩でした。市川大門町の文化財に指定されている「五丁目の山車」は嘉永6年(1853)7月に造られたもので、山車の中央部に花火の打上げ筒がしつらえてあります。五寸から七寸五分(約15~22センチ)、真鍮の箍(たが)が巻かれていることからも盛況が知られます。また、甲府城代の狼煙掛武島氏が指導した清気連の武栄流の花火、七丁目の大星連の花火は有名でした。

近代の市川花火

近代の市川花火は、明治になって東京遷都の際、東京で全国花火競演会があったとき、市川の一六弁の菊花は非常に好評であったという。隅田川の花火競技会のとき、黒玉かと思ったものが水中で金魚となって水中を泳いだので、観衆の賞賛を受けたといわれています。しかし、市川の御用紙漉きの制が廃されて一般紙業が不振になるとともに、隆盛を誇った市川花火も、住年の盛況は昔語りの種となりました。また、明治33年の新刑法の発布で、花火の製造は頓挫しましたが、逆に花火競演の技術の研究は進みました。その後、打上げ、仕掛け、玩具などの研究を重ね、玩具花火は東京を中心に全国各地に販路を広げ、また打上げ、仕掛け花火は各地の祭典や需要に応じ、出向いて打上げました。

現代の市川花火

花火
戦後、花火好きの市川大門町では、祭典や催物ごとに花火を打ち上げてきました。昭和23年「火薬取締規制」が制定され、製造、販売が許可制となったため、企業連合が進み、盛時には10軒を数えた花火製造業者は、現在5企業を数えるのみです。昭和25年全国的組織の「日本煙火工業会」が発足した際、県内企業も「山梨支部」としてこの傘下に入りました。がん具花火としては線香花火、水雷、大砲、光弾などがあり、外国向きであるので1ダース12本を12束とした1グロースが単位で、荷造りはトタン板で包み木箱に入れて堅固にし、行先はニューヨークが主でした。特産の「より花火、線香花火類」は内職的に生産され、最盛期は、市川大門町内3000世帯の1/10の300世帯以上が携わり花火の町として貢献した。しかし、現在は、セットものが流行となってきて、問屋的な体質が中心となりました。製造では打上げ花火が中心です。